最近「アーキテクチャ」の議論が盛り上がってます。元々は建築設計であったアーキテクチャという言葉はいまやPCやIT環境の設計に限らなくなりました。アーキテクチャという用語の展開は面白く、最近は社会構造や思考さえもアーキテクチャと呼ばれるようになっています。
実はさらに面白いのが、この新しい「アーキテクチャ」という概念が、逆に形態の面白さという意匠設計だけに走る建築設計に疑問を投げかけてきたのです。これが一連の磯崎さんも含むアーキテクチャ議論のようですが、敢えて思想地図の特集号は読まずにこのエントリを書いてます。バイアスを入れないようにするために。
規範としてアーキテクチャを考えると、「造形」としての設計はアーキテクチャとかけ離れたコンセプトだというわかるかもしれません。言い方を変えると、造形は結果のひとつでしかない、というのがアーキテクチャの本来のあり方だと思います。アトリエ設計事務所は「作家性」を売りにしますが、結果として出てくる作家性が最初に来ること自体がアーキテクチャの思考と逆なのです。「好きな形だから」というのはアーキテクチャでなく、純粋な造形で、造形はアーキテクチャのステップには必要無いのです。
もう一点気をつけないといけないのは、アーキテクチャは「機能」でも無いということです。もっともっと高い視点から社会(人)の規範となる構造を造る作業なのです。だから、「機能」を追い求めるアトリエと逆の立場にある組織事務所の作業も決してアーキテクチャでは無いのです。実際に組織事務所の多くは、動線計画などで機能をガッチリ固め、仕上げや構造は機能と直接関係無いので何でも良い。仕上げは施主の趣味に合わせて選ぶだけです。だから出来た作品の多くは焦点がずれた退屈な建物になってしまいがちです。アーキテクチャのソリューションが実は形態で無いことさえあるのです。この厳しい視点を「機能」と「造形」の議論に完結させた組織事務所もアトリエも持っていません。
さて、建築のデザイン言語は出尽くしたと思います。最近の設計のほとんどが「どこかで見たような」デザインエレメントの寄せ集めです。ファッションのスタイルブックのような感じです。そして、「設計が上手い」と言われる人ほど、そういったエレメントを綺麗に立体構成出来る人のようです。その造形は綺麗でも必然が無いことが多く、良く見れば見るほど「矛盾の固まり」であることが多いと思います。これが最悪となると「建築家XXXX風に設計も出来ます。どんな形にでも出来ます」というような造形作家に成り下がった建築家です。本当のアーキテクチャなら、全てのエレメントが全体に対して責任を持ってなくてはいけないはずです。
以上のように、現在の「建築家像」が造形作家でしか無いことに嫌気をさしていた頃、全く違う姿勢の建築家、藤村龍至氏を知り、3月に日本に戻った 際に、運良く藤村氏にお会いすることが出来ました。藤村氏の建物はとにかく「無駄なことをしていない」という印象があります。これは装飾が無いとか形が スッキリしている、といった表層の問題ではありません。最下部の店舗と上層の関わり、設備のまとめ方、そして矛盾が無い構造計画。作品を説明していただ き、真の意味で設計に正しく取り組んでいるという真撃な態度に感銘を受けました。それは、藤村氏のプロセスという恣意性を出さないように設計を進 めるという無駄の無い方法論が無駄な要素を取り払っていたのだと思います。どこかでプロセスにこだわった昔の磯崎新氏を思わせました。
前のポストで、ジャーナリストの瀧口範子さんにお会いした時、「若い人が本質的なことに興味を持ってきている」という指摘を受けたことを書きました。この不景気で、今の若い世代で感覚の優れた建築家や学生は、造形という表層的な行為から離れ、より本質的な課題に取り組もうとしているのかもしれません。私が大学で設計を勉強している時、いつも教授から「思い切って好きな形をつくってみろ」と言われつづけた違和感がやっと解けていくような感じがします。
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